昭和46年12月16日 朝の御理解
X御理解 第七十八節 「神の機感にかのうた氏子が少ない。身代と人間と達者とがそ ろうて三代続いたら家柄人筋となって、これが神の機感にかのうたのじゃ。神の機感にかなわぬと、身代もあり力もあるが、まめにない。まめで賢うても身代をみたす事があり、また大切な者が死んで、身代を残して子孫をきらしてしまう。神のおかげを知らぬから、互い違いになってくる。信心して神の大恩を知れば、無事達者で子孫も続き身代もでき、一年まさり代まさりのおかげを受けることができるぞ。」
神の機感にかのうた氏子とて、お取り立て又はお育てを頂かてもらわなければなりません。それにはまず、神のおかげをおかげと知らねばならぬ。
神のおかげを知らぬから互い違いになっくる。私共の例えば一年間の事を振り返って見て、おかげを受けた、又おかげを落とした、例えば繰り返しであっては、それは互い違いに生きている証拠ですから、ですからそこに神の機感にかなわぬ何ものかがあるという事を、本気でひとつわからせて貰わねばならんところです。
次にはね、神の大恩を知れば、無事で壮健で子孫も続きとおっしゃっておられる。 今日は私は、神のおかげを知らぬからというところ、それから神の大恩を知らぬからという、神の大恩をしれば、無事健康で、子孫も続き身代も出来一年勝り、代勝りのおかげも受けられるとおっしゃる。この後半のところを念をいれて頂いて見たいと思う。
昨日四国の川上さんから、年末の御礼の手紙がきとりますが、この方は今日の御理解からいうと、神のおかげを知らぬからという神のおかげを非常によく感じておられるのですね。もうそれもおかげ、これもおかげという。久留米の井上さんのお姉さんに当たる方です。もう電話でお届けがあります。又は、手紙でお届けがある。本当に神様のおかげを知るという事によって、こういうおかげを受けられるという。神のおかげを知らぬから、互い違いになるのであって、神のおかげと知って、神のおかげを信じておるから、互い違いのおかげにならずにすんでおるという事ですね。
それですから、御礼の手紙読んでみましょうね。
今年もいよいよ師走の時節に入りまして、あっという間に十日にもなりました。御無沙汰致しておりますが、親先生はじめ若先生、教会の皆々様には御健やかに一日御励みの御事と拝察致しております。私こと、静かに今年はじめからのもろもろの事を振り返って見ますと、本年程大きなおかげを、お繰り合わせを、それも指折り数える程に頂きましたのは、かってない程のように思えます。第一に去年の暮れ、もう、押し迫った頃から着手(大工さんの御都合が)しました。家の改築も一月末には予想以上の出来ばえにおかげを頂き、快適に明るい毎日を過ごさして頂くようになりました 第二に二月頃からはじまった長女の縁談がばたばたと決まり、四月十日に結納、五月二十日に挙式、その後も順調に順調に御繰り合わせ頂きまして、七月二十日、新装開店、八月二十日新居移転、そしてお仕事もパン・スナック兼パ-ラ-の責任者とならせて頂き、売上も快調の由、長女こそ、衣食住と満点のおかげを頂かせて貰っております。勿体なく存じます。
第三には、長男の縁談につきましては、先方とも話合いのうえ、七月十一日結納を取り交わせて頂きました。明春二月十一日挙式の予定でございます。万事万端に御繰り合わせ頂きまして、どうぞ滞りなく結婚式が上げる事が出来ますよう、心から御願い致します。未だ住居の方が未定のようですので、どうぞ住居の御繰り合わせを御取次御願い申し上げます。
第四は、二男の大学中途退学後、住み込み従業員として懸命に働かせて頂いている事でございます。仮に大学を卒業して、まあ、まあのところに就職して、何年かたって、家業を継ぐため家にかえらせるとしましても、仲々この商売は苦労が多く、若い者には嫌われる仕事です。でも神様の御取り計らいによりまして、自ら自覚して決心して、このようにならして下さった事に対して、何といって御礼申してよいかわかりません。この冬が一番辛抱と思われますが、何がなんでも、この辛抱をしぬかせて貰わねばなりません。陰ながら一心にお祈りさせて頂いております。その外、世の中が不景気になりまして、多少、去年に比べますと売上は芳しくありませんが、原料も値上がりせず、製品も綺麗に出来、作業員(人手)と心がぴったしの和気あいあいの毎朝仕事をさして頂いております事は、たとえようもなく有難い事でございます。
車の事故もなく皆健康で、働ける事を感謝して止みません。只、一つ、明春短大卒業の次女の就職が、まだ決まっておりません。この娘に敵した職場が見つかるまで気長に待つつもりです。すべてを神様に御繰り合わせと待たせて頂きます。
年末、仕込みの日も近づいてまいりまして、本年もどうぞ製品が余る事なく、不足する事なく、腐る事なく、生産の上万端のお繰り合わせ心から御ねがい申し上げます 親戚知人の上にもよろしく御願い申し上げます。
親先生、本当に有難とうございました。いつも、いつも手紙の先で御願い申し上げるばかりで相済みません。今年は本当によい年でございました。深く、深く感謝致し厚く御礼申しあげます。来年も今年以上の大みかげをこうむらせて頂きますよう、神様の御機感に適うような、心を綺麗に、驕らず実意丁寧にすべての事に当たらせて頂くつもりです。では親先生良い年をお迎え下さいませ。有難とうございました。
とあります。聞いておってからもう、今年十二月までず-っと、おかげ、おかげ、もう指折り数えてもう大きい事だけでも、このようなおかげを頂いておるといったような事が書いてある。この通りにおかげを頂いておるのです。特にこの次男の大学を途中で止める時のなんかもう、御神意を伺ってでしたけどね、大学をやめてがよかろうというのが、大変なおかげに展開して、この前の手紙で詳しくいってきとりますがね、もうその事がすすべて、おかげになって順調になって、それが願いのいきどどいておるのもさる事ながら、最後のところにございます、神様の機感に適うようなとこういう、しかもそこんところが、心を綺麗に、いわゆる限りなく美しゅうなろうという事ですね。しかも驕らずですね。これはもう徹底して驕りない方です。それはもうびっくりする位に、おかげを頂いておられますですね。それから実意丁寧に、全ての事に当たらして頂くという事の内容が、神の機感に適うような、心が綺麗に、驕らずにというところに焦点がおかれているという事がですね、いわゆる神のおかげをおかげと知らせて頂いて、神恩報謝の生活の中から、例えば、こういうおかげを受けておられる話であります。
だからおかげをまず、知らなければいけません。同時におかげを頂かせて頂く心がおかげというものが、いつも神の機感に適う氏子にならせて頂きたいという願いを持っておられるという事。その神の機感に適うた氏子という、その内容の一端がです、いわゆる物事に驕りがないという事。限りなく心を綺麗に美しゅうさせて頂くという事に焦点がおかれておる。おかげを知らぬから互い違いになってくる。おかげを知っておるようであっても、おかげを知らぬから互い違いになってくる。次に神の大恩を知れば、無事健康で子孫も続きとある。なら、神の大恩とは、天地の大恩とはどういう事か、私は今日はここんところを神様の大恩を以てなされる事、神様の大恩の中に神様の御恵みの中に、恵まれておる。例えば、御ものとでも申しましょうか、又はそれをここ流に御事柄と頂いてもよいでしょう。
今日はとりわけ、御ものというところに、焦点をおいて聞いて頂きたいとこう思う だからいわゆる、甘木の初代なんかが、天地の大恩を説いて、説きぬかれた方だと私は思うのですけれども、その天地の大恩を御説きになる先生御自身が如何に、御ものを大事にされたかという事です。だから御ものを大事にするという事は、天地の大恩がわかっておるから、御ものを大事にするのです。せにゃおられんのです。親神様の御恩がわかり、親神様の大恩がわかるから親・・・・御事柄を大事にせにゃおられん。これは私の場合なのです。それを御事柄として頂かねばおられない事になってくる。今日は私、御神前で久屋大黒堂と頂いた。テレビで宣伝していますでしょう。
あの侍の薬、何百年か家伝の薬を出しておられるところのお店ですね。久屋大黒堂どういう事であろうかと思わして頂いて、今日七十八節を頂いて、いわゆる子孫も続き、身代も出来、一年勝りのおかげを受けられる事だと今日は思うたのです。
そしたら御理解七十八節です、ここです。身代も出来、一年勝りのおかげが受けられるという事、久屋という事は、あれはヒサヤと片仮名で書いておりますけど、私はまあ、それを理解づけるならば、久しくという事だと思う。幾久しくという事だと思う大黒堂というのは、これは私の頂いておる信心といってもよいでしょう。いわゆる恵まれ続けるという事なのです。必要なものが必要に応じてです、打ちでの小槌を打ち振れば、打ち振るだけ必要な物が必要に応じて頂ける。御徳だと思います。
今日は久屋大黒堂のようなおかげを頂く為にです、それからその事をお願いさせて頂きよりましたらね、これはよく皆さんがヒントですから、考えて頂きたいと思うんですけど、寿という字をですね、寺と頂いたんです。寸を長く書いて寺になりました その寺というのがね、寿という字になっていくところを頂いた。よく似とるでしょう感じが。寺という字が寿という字に変わっていくところを頂いた。寺という事は死ぬるという事ですね。寂しいという事だと思うんです。寿という字はそれとは反対、生きるとか又は芽出度いとか、いわゆる寿なのです。久屋大黒堂と頂いてから、そのように頂いた。ですから私共が、日々寂しい例えば、難儀な生活から本当に明るいというか、いわゆる、有難い、勿体ないのに移っていくというふうに私は感じとらせて頂いた。いわゆる、貧しい生活から、賑やかな豊かな生活にというようなふうに頂いた。そこんところがです、年勝り、代勝りのおかげが受けられる為にです、神の大恩を知らなければいけんのです。神の大恩を知るという事は、天地の大恩を知るという事はどういう事かというと、天地の大恩によって、恵まれておるもの、いうなら、穀物でも天地の大恩を思わなければおられない。天地の大恩に浴しておる。で、米なら米、麦なら麦が出来ておる。
例えば、小道具の一つでも、例えば、衣・食・住なら、衣・食・住・そのすべてが天地の大恩を受けて出来てないものは何一つとてない。してみるとその事を、例えば大事にそれを取り扱うという事は、天地の大恩に報い奉るという事になる。
天地の大恩を知っておるから、御粗末も出来ない。御無礼も出来ないという事になるのです。最近その事を一生懸命願わせて頂いておるのですけど、若先生の結婚の披露の時に頂きました、御理解の中にありますように、あの式を境に大黒様が合楽の大黒様が、左に持っておられる打ち出の小槌を右手に持ち替えるおかげを受けよという意味の御理解を頂きましたね。
だからこのお結界が左である事も左に通じましょうけれども、その左に持っておるのを右に持ち替えるという事だけでもこれは、大変な難儀な事、難儀な事というのは難しいという事。左利きの人に右利きになる為にはそれはやはり難しい。けれども、私共はその気になって、熱心にその事を努めるならばです、左利きには勿論の事ですけれども、左と右と両方が、両刀使いのおかげが頂かれる。宮本武蔵の事という、例えば、久保山の東京にいっとられる稔さんですね、の事の例をもってお話いたしんですけれどね、先日この人は子供の時から左利きであった。寿司屋に職人になるためにそれこそあれだけの技術を身につける為に、技術というのでしょうかね、身につける為に、左で包丁使うわけにいかんから、その包丁を右に持ち替える事の為に、それこそ、血の涙の出るような修行をしましたといっております。
やはり左で出来るだけではいかん。やはり右に持ち替える事の修行の為に血の出るような思いもした。おかげで右と左と一様に使える。忙しい時には両手でやられる程しに、おかげを頂いたというようにですね、合楽の場合も、もう家は左流儀だからといわずに、その左手の打ち出の小槌を右に持ち替えられるだけのおかげ、その右に持ち替えるおかげというか合楽に欠けておる力の、例えていうならば、余所の教会でおかげを受けておられるいわば、それを参考にさせて貰わねばならん。第一本部の行き方というものも、体得していかねばならぬ。合楽一辺倒ではいけない。
やはりおかげを受けとられる大きな教会の右の方と思われる教会の、例えば、甘木の教会辺りの行き方というものもです、本気で合楽で身につけていかねばいけません 合楽の行き方と甘木の行き方は大変な違い、同じ金光様を頂いとっても、それでもこれは俺の領域だから、あれは向こうの領域だからといわずにです、そんなら甘木の行き方を身につけていくといった行き方もです、右に持つ事だろうと思います。そういうような意味なのです。
一昨日でしたか、ある事をお願いさして頂いとりました。そしたら十三日会の私の部屋の南側に蘇鉄園がありますね。蘇鉄ばっかりで庭が出来ておるあれと見事にすぐり藁で綺麗に何といいますか園といいますかそれが出来ました。もう庭の景観が一段と上がったような感じがいたします。いわゆる必ずしも葉が繁って、こうしている事も見事ですね、蘇鉄園、けども冬に入ってああいう園とした、あの見事な手入れをして綺麗になっておりますのは又、冬の庭の景観というものが又一段ですね、素晴らしいです。いっぺんごらんになるとよいです。もう、素晴らしいです。
昨日何人の方にでもあそこに連れていって見せましたがあら、かえってこれの方がよいくらい、暖かくなったら取りはずします。あの情景を頂くのですね。そして頂く事が始末倹約と頂きました。合楽の場合なんかこの始末倹約が出来んのですよね。
もう、やれやれというたような生き方です、まあ、やれやれといえば、如何にもろくそうのようですけどね。例えば、電気のなら電気でも、もうボンボンどこもここも灯けてあかあかとせにゃ出来んというようなところがあるです。それで私は後からず-っと電気消し係のようにしていきますがね、そういうふうがあるです合楽の場合は そげなケチな事をというてからといったようなものがあるのです。だから始末倹約をするとういう事のこれは一つの美風とでも申しましょうかね。
成程、こうやって蘇鉄が青々と繁っておるのも有難いが、それを包むようにして、ああゆうふうに出来あがっとるのも、又美しさがあるという事。私共がねもうそれこそしみったれという事ではありませんです。私がいうのは、本当にここは心がけ一つでは始末ができ、倹約が出来れるところをですおろそかにするような事ではいけんです。電気だけでも一つ使えば充分であるのに、もう入口からず-っとつけて行かねばならんといったような事なんです。例えて申しますと親教会あたりの勝手元に入りますとですね、ひきしまるようなものを感じますですね。野菜一つにでも、それこそ見事な使い方をしてあるですね。そういう意味で例えば、合楽の方達の中に入っていくと何かこう、粗末になっていきよるような感じを受けるですね。それは余りにおかげ頂きすぎとりますから、ふんだんにあるすぎておる、散らかっておるからかも知れませんね。もう、せからしか面倒くさかまだ使えるものでも捨ててしまうといったようなところがあるのです。だからそういうところをですね、私はこうそうさせて貰わねばおられないという生き方になって、それは一つの美風です。禅寺なんかにいったら同じようなものう感じますですね。もうそれこそ野菜の枯れ葉でも粗末にしてはない それはもう整然とそれが出来ておる。何ともいえん心が清められるようなひきしめられるような気がします。だからこれは、いよいよ始末倹約せなけりゃいけません。 そういう事が私共に欠けておる。合楽にはそういう事も右手から左手に持ち替えるという事なのです。あたかも今日の御理解を頂きますと、神の大恩を知れば無事達者で子孫も続き、身代も出来、一年勝り代勝りのおかげが受けられるとあるのですからここのところ今日はここのところだから皆さんが、本当に頂いて頂きたい。
神の大恩を知ればですよ私共の願って、願って止まないとこの健康で身代も続いて子孫も出来た、しかも一年勝り代勝りのおかげが受けられる程しの事なのです。
そこで神の大恩とはどういう事かというと、神様のおかげで出来ておるもの、いうならば、お野菜一本でも神様のおかげで出来ているもの。神様のおかげで出来ているもの、それをお粗末御無礼にしないという事は、それをそんまま、これを使えば損するからこれしこすれば、儲かるというような利害関係といったようなものは、ではない。いうならば、神様の御物を大事にするという生き方、それも神様の御物であるとして神様のおかげを知り、神様のその例えば、お野菜一本でも育てて下さった、作って下さった陰には神様のどの位の思いがこめられておるかわからんと思わして貰ったら、その野菜一本でもお粗末御無礼な事は出来ません。
この頃から日田の綾部さんところのお漬物が一樽すっぱくなったというので、もうどうにもしようがないという。なら、家に頂きたいと誰かがいったんでしょう。
ですから沢山持って来て下さった。だからそれを、水に何日も漬けてそしてそれを醤油で煮てある。もう捨てなければないないものが生きている。神様の御恵みのものとして、これを生かすという事を神様が、どの位喜んで下さるかわからん。神様の例えば、御恵みの御物をです、もうすたれていこうとするものを、生かしていくのですから、しかも大変評判がよくてから、あっちから、こっちから大変貰い手が多い。 うちで作ったとは、それをもうこれも少しは要るわけですね。もう胡椒も沢山入れてありますから、とにかく御飯がはずむ位においしいです。そういう工夫がです、大根だけの事じゃありません。漬物だけの事じゃありません。全ての点にそういう工夫をせよという事なのです。
私がいつも申しますように石鹸一つ使うでも、こういう使い方があるんだと、人の倍くらいもてる。こういう使い方をすれば、私は歯ブラシに歯磨きをつけるのでも、テレビを見るとですね、歯ブラシの毛のあるところにザ-ッとつけるでしょう。
もうあげな事したら、かえって口の中がひどくして、かえっていかんですよね。じかじかして、あれを私は四分の一くらいしかつけんです。もうそれが丁度よいです。 始末倹約です。それも御神意にかなう、始末倹約です。それを信心によってなされるところの始末倹約のそれを、一つの美風として、人からケチンボといわれるような事では絶対いけません。これが幾らがとあるけんというて、始末倹約する事は下作りが、けれども神様の大恩を知って、神様御恵みのものとして、わからして頂きゃお粗末御無礼な事は出来んという生き方からいきゃ、始末倹約をさせて頂く事は、丁度、蘇鉄を藁で包んでいるように美しい。見事に包んであるように。そういう風がです、合楽には欠けておる。そういうものを身につけて行く事を、左から右に持ち替える事の内容になっておるという事を、昨日、高橋さんがその事を申しました。
まあ御承知のように、今、椛目の方を改造しております。もうとにかく、やれやれいう生き方じゃないばってん、もう、本当に高橋さん好みでいかれますから、そげな家にそげなものつけたら勿体のうなかのというごたるとを、ごろごろつけていかれるわけです。それはきれいになる事ですから有難い事です。今日の御理解を頂いてなかばって、椛目の方も、ちっとは考えにゃいけませんのと言うことになってきた。それに相応しいものでなからなければいけない。一寸始末をすると一寸緩めるというたら大変な違いになるです。しかもそれが信心で、いうならば、一年間をしめくくってみてからです、それがおかげの互い違いになってきたら、もう大変な違いになるでしょうが。それこそ寺と寿という、字が似とるけれども片一方は寺の方に淋しい事になり寿という字が賑やかになっていくようにです、そこの辺のところを私は、神の大恩を知ればです、無事健康で子孫も続き、身代も出来、一年勝り代勝りのおかげという、おかげと私共は願わん者ははありません。
願うならば神様の大恩を知らなければいけん。だから神様の大恩を知るよすかとして、神様の御作り下さる御物を大事にさせて貰う。それを月並みな言葉で言うと始末倹約になるのだという事です。
私はほんとにそうです、私はもう大体ケチンボの性だからか知れませんけれども、お粗末御無礼する事が大嫌いなんです。これに私がいろんなメモやら致しますのに、西岡さんが綺麗な紙やら折って持ってきて下さる。私はこれをもう殆ど使わないです そしてそれはお名前が何か使う時に使う事にしておるです。普通は手紙の端やら広告の端やら、ここにあるものでメモを致します。ですからどうぞ、例えば、その精神なのです。御物を大事にするという精神なのです。
一昨日でした、私はたまたま朝の御祈念が終わって、次の方達が終わって帰られた後に一寸便所に立たせて頂いた。熊谷さんやら波多野さんが帰られた後です。
朝の御祈念で一切りついて、次にまた、参ってくる方達があって、そして御理解頂いて、二切り目位のすんだ頃でした。私お手洗いに行きましたら、お手洗いが電気がいっぱいついとる、表に出てきたら、下駄箱のところについておる電気がまだ、赤々とついておる。もうあなた、明るいでしょう。だからこれだけ沢山の人が出たり入ったりしよるのじゃから、どうして一応切る事をしないだろうかと私は思いました。
一事が万事、こんな事じゃろう、こんな事じゃからおかげを頂ききらんねと私は思いました。自分の事だけじゃない。人方の事だけじゃない、それが信心なのですよ。 必要な時にはどれだけ電気なら電気使うでも構わない。使わなければ神様も喜んで下さらないと私は思う。けれども必要でないところに、赤々としておる時に、明々と電気がついてるこげな馬鹿のごたる事はなか。見苦しいです、第一。
それはたまたまであったかしれませんけれども、下駄箱のがついとる。しかしこれだけの人が出入りするのですから、それがほんの道すがらであるのに消してないとするならば、そういう事を私は始末倹約という、そういう事をおかげ頂かねばいけません。昨日はある方の大変な難儀な問題が続いとります。その方の事をね、お届けさせて頂きよりつしたら、脱脂とい事を頂いた。脱脂綿の脱脂と、脂を抜くという事、私はそれを聞いて思いました。もうこの人が本当に油気を本気でぬかれよるところです 油を絞られよるところです。こげんこの事で難儀するごとあるなら、これから先は決して御粗末御無礼は致しませんというようなものが、すっきり脱脂される。油がぬかれる。だから神様の願いはそこにあるのです。だから難儀が続いておるのです。
だから本人がその気になって、こういうお粗末御無礼な事は致しませんという事になった時が油が抜けきった時にです、そこにおかげがあるのです。
神様がおかげを下さる。暇が要っておるという事はです、すっきり、例えばおかげにならない。おかげを頂いてもおかげを落とす内容があっては、折角のおかげがおかげにならんから、神様が脱脂しよんなさる。油を抜いて下さりよるとです。
それでも、おかげ頂きたいと熱心に参るから、お互いがそういう贅沢なら贅沢という油が抜けて切れるようなですね、おかげを頂いて、しかもその始末倹約がです、ひとつの美しいもの、麗しいもの、それが一つの美風になる位のところに高められたらです、素晴らしい事。その事もです金がかかるからとか損するとかでなくて、神の大恩を知り、それがわからせて頂けば、そうせなければおられないというところまで、参りましたら、もう子孫繁盛家繁盛の約束を神様がしてあって下さるのですから、そういうおかげも頂けるという事になる。
川上さんの手紙も読みました。それは神のおかげを知らぬから、互い違いになってくるというところ、神様のおかげをおかげとわからせて貰うて、そして、神様の心にどうぞ、神様の機感に適う生き方、神の機感に適う、信心をさして下さいという願い願ったからには本当に、神の機感に適った生き方にならねば、勿論いけないわけですね。どうぞ。